『オルファクトグラム』 井上夢人
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著者:井上夢人
出版:講談社文庫
ISBN:4062749858
発行: 2005年 02月
価格:819円 (税込:860円)(上巻)733円 (税込:770円)(下巻)
[帯]
’01年度「このミス」4位の名作がついに!(上巻)
究極の嗅覚の世界 愛と感動の大長編(下巻)
[あらすじ]
片桐稔は姉の家を訪れたとき、何者かに背後から襲われた。病院で意識を取りもどした彼は、そのとき姉が殺害されていたことを知らされ、同時に頭部の怪我が原因で自分が驚くべき嗅覚を身に付けたことに気づく。この嗅覚が犯人を追い詰めるために役立つのだろうか…。しかし、殺人者は次々と犯行を重ねていくのだった。
[感想]
わたしたちは匂いの世界のことをほとんど何も知らない。だが、もしこのように見えたらどんなに素敵だろうと心から感じせさてくれるこの作品は実に美しい。
主人公が自分の変化に気づき、匂いの構造を調べたり、CGで描いたりするところから、わたしたちは彼の喜びを感じ取ることができる。今まで見ることのできなかった世界を調べてみたい、そして他の人にも伝えたいという気持がストレートに読者の心に届いてくるのである。主人公はおそらく生まれたての赤ん坊が全身で刺激を受け止めているのと同じような興奮を感じているのだろう。これは事件を追う緊迫感やスリル・サスペンスとは違う。新しいものを知りたい、感じたいという、人間が生まれながらに持っている願いである。これが読みながら満たされていくのはどんなに嬉しいことか。
実際には赤ん坊は刺激から学習をしていくときの興奮をわたしたちに伝えることはできない。だが、主人公が匂いの世界を知るのと同じような感動を理解するのに近い場面は体験することができる。それは、文字の存在を知り、読むことができたときの幼児の姿からである。
文字を覚えたばかりの娘を連れてドライブに出かけた。娘は窓から見える「そば処」の文字を見て、「そ…ば…」と読み、たどたどしく何度か繰り返してからようやく「そば」のことだと気づいた。そして、大きな声で「おそば屋さん、あった!」とわたしに伝えてくれたのである。「うどん」の看板も「ごみ」の文字も、娘にとっては初めて文字として意識されたものである。次々に声に出し、読んで意味がわかることの喜び、文字というものが物事に対応し、言葉と同じものなのだと知る喜びを全身でわたしに伝えてきた。この喜びこそ新しい世界の存在に気づいた興奮と同じものではないだろうか。
文字だけではないのだろう。本当は目の前に当たり前に見えているものすべてに、深い意味と価値があるはずである。だが、わたしたちは成長するうちにそうしたことを忘れていってしまう。驚きに満ちた世界は、次第につまらぬものに見えてきてしまう。大人になることで失ったものは計り知れない。
作品の結末がよい。読み終えたとき、わたしたちは誰もが主人公と同じ気持ちを体験してきたのだと改めて感じることができる。そしてもう一度、世界が新鮮に見えていたときのことを思い出すことができる。匂いの世界を知るのは主人公ただひとりだが、彼は決して孤独ではない。自分と同じように、新しい世界を知る喜びを分かち合うことができるのだから。この喜びに満ちた作品を読める幸せを、一人でも多くの人と共有したい。
2001年度このミステリーがすごい4位。(旧みすべすより 文庫化により再掲)
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